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劉 信(りゅう しん、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。父は劉顕。叔父は劉賜。更始帝劉玄の族甥にあたる。前漢末期に反王莽の挙兵を行い、翟義に天子として擁立された厳郷侯劉信とは別人である。 == 事跡 == 父の劉顕が復仇のために殺人を犯し〔『後漢書』劉賜伝註の『続漢書』の引用によれば、先ず酔っ払った釜侯亭長が、劉玄(後の更始帝)の父劉子張を罵り、劉子張は怒ってこの亭長を刺殺した。次に十余年後、この亭長の子が復仇として劉玄の弟劉騫を殺害し、従兄弟である劉顕はこれの仇を討とうとした。〕、役人に捕えられて処刑されると、これを怨んだ劉信は、叔父の劉賜と共に、家財を擲って刺客を雇い入れて復讐を果たしている〔 『続漢書』によれば亭長の妻子4人を焼き殺した。〕。その後、劉信、劉賜らは新の追及を受けたが、幸運にも赦免された。地皇3年(22年)、劉縯が舂陵(南陽郡)で反新のために蜂起すると、劉賜はこれに従軍しており、劉信も叔父に追従した可能性が高い。 更始1年(23年)秋頃、更始帝(劉玄)から大司徒に任命された劉賜が、汝南郡の劉望、荘尤(厳尤)、陳茂を討伐したが、苦戦してこれを鎮圧できなかった。そこで、同年10月、更始帝により劉信が奮威大将軍に任命され、叔父に代わって汝南討伐に従事した。劉信は更始帝の期待に応え、劉望、荘尤、陳茂を尽く斬り、汝南を平定した。この功績もあって、翌更始2年(24年)2月に更始帝が長安に遷都すると、劉信は汝陰王に封じられた。劉信はさらに江南一帯を平定し、豫章郡に駐屯している。 しかし劉秀が光武帝として即位した頃になると、劉信は勢力が低迷した模様で、遂には桂陽太守張隆〔張隆などの荊州南部の有力地方官たちは、この当時、それぞれの拠点で自立・割拠していた。これらの地方官たちが光武帝に服従したのは、岑彭による懐柔工作が成功した建武6年(30年)頃のことである(『後漢書』岑彭伝)。〕に撃破されてしまう。進退窮まった劉信は、洛陽に参じて光武帝に降伏し、汝陰侯に封じられた。 永平13年(70年)の楚王英の反乱に加担したとされ、劉信は改易された。なお、この際に関係者は死刑または流罪に処されているが、劉信に対する処分がどちらであったかは不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「劉信 (汝陰侯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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